「自分の形見って、何だろう?」
もし自分がいなくなったとき、家族に“自分が生きた証”を残せるものがあるのか。
がんを経験した今、そんな問いが心に浮かぶようになりました。
私は特別裕福でもなく、かといって生活に困っているわけでもない、ごく普通の看護師です。
3人の子どもを育てながら、贅沢はせず、家族と共に慎ましく過ごしてきました。
そう考えると、高級な時計や宝石といった「形見」らしいものは、あまり持っていないのが現実です。
形見とは、「その人が生きていた証」として残るもの。
そう思うと、今から高価なものを新しく買い足すことに、どこか抵抗を感じる自分がいます。
むしろ最近では、家族に負担をかけないよう、身の回りの物を減らすようになりました。
今年の春から夏にかけて、使わなくなったアウトドア用品や本をメルカリで売り払い、20年以上大切にしていたカヤックまでも手放しました。
自分でも不思議に思うほどです。
もしかすると、がんによる心理的な変化が、自分の行動を「終活」へと向かわせているのかもしれません。
けれど、それが悲観的な感情というよりも、穏やかで冷静な“整理”であるようにも思えるのです。
私が残したい3つの形見
1. 結婚指輪:妻との絆の象徴
やはり一番は、妻と共に選んだ結婚指輪です。
スイスのブランド「フラージャコー」のシンプルなリング。
内側には、二人のファーストネームと結婚記念日が刻まれています。
今年で結婚20周年を迎えました。
そんな節目の年にがんと出会ったことに、運命のいたずらのような切なさを感じます。
看護師という仕事柄、指輪は日常的に外す必要があります。
それでも20年間、ずっと左手薬指にあり続けた指輪。
無数の細かい傷が、その年月を物語っています。
いつかやせ細った手から抜け落ちてしまう日が来るかもしれない。
そんな不安すら、今は静かに受け止めています。

2. 腕時計:人生の時間を刻んできた相棒
もう一つ、大切な形見は腕時計。
20歳の誕生日に、両親から贈られたSEIKOの「AGS(オートマチック・ジェネレーティング・システム)」。
手の動きで自動的に発電されるこの時計は、30年近く私と共に時を刻んできました。
結婚式や出産、留学中の体験、何気ない日常。
すべての時をこの時計と共に過ごしました。
私はこの時計を、息子に託したいと思っています。
父が生きていた時間、父が見てきた世界。その一端を、この時計が語ってくれるかもしれません。

3. 眼鏡:見てきた世界を共有するもの
3つ目は、眼鏡です。
ただの視力矯正具ではなく、人生の景色を共に見てきた存在。
20代、30代、そして現在と、それぞれの時代に選んだ3本のフレーム。
役割や年齢に応じて選び、時には老眼鏡に切り替えた現在。
これを使っていたときの私の姿や、私が見ていた世界を、いつか家族が感じ取ってくれたら嬉しいです。

デジタル時代の形見:ブログという記録
ある調査では、形見として多く残されるものに「衣服」「アクセサリー」「時計」「家族の日記やアルバム」などが挙げられていました。
——あれ?これ、私が今書いているブログこそ「デジタル版の形見」なのでは?
がんとの闘病記や、自分の感じたこと、伝えたい想いを綴ったブログは、まさに“記録”であり、“心”でもあります。
そしてこのブログは、広告収益を得ることもできるストック型資産。
もし万が一、私がいなくなっても、このブログが残り続け、家族の力になれるなら。
これはとても現代的で、実用的な「形見」なのかもしれません。
子どもたちへの形見:未来に託す目標
私には2人の娘がいます。彼女たちにも、父からの形見を残してあげたい。
だから私は、自分が20歳の誕生日に腕時計をもらったように、彼女たちにもSEIKOの腕時計を贈ろうと決めました。
日本製のしっかりした時計を、彼女たちが成長の節目に受け取ってくれたら。
その瞬間を見届けるまでは、絶対に生きていたい。
そう思うと、私にとって新しい「目標」が生まれました。
最後に——形見とは“思い出を手にするカギ”
形見は、故人の存在をそっと呼び起こしてくれる“カギ”のようなもの。
指輪、時計、眼鏡、そしてこのブログ——それぞれが、家族の記憶の扉を開けてくれるきっかけになれば、それだけで幸せです。
そしてその日まで、私は今日も生きて、自分の人生をしっかり刻んでいきたいと思います。
もし、あなたが形見について考えるとしたら、どんなものを残したいですか? 今のあなたが思う「残したいもの」、一度ゆっくり考えてみませんか。
